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MASTERキートン

【ネタバレ解説】MASTERキートン全編徹底レビュー!考古学者にして元SAS、最強の保険調査員の魅力

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導入部分

考古学者、元SAS教官、保険調査員―― 3つの顔を持つ男の物語。浦沢直樹×勝鹿北星が生み出した『MASTERキートン』は、知性と行動力を武器に世界を駆け巡る主人公・平賀=キートン・太一の活躍を描いた傑作です。この記事では、完全版全12巻・全144話を通して、ネタバレありで徹底解説します。

この記事でわかること

  • MASTERキートン全編のストーリーと見どころ
  • 平賀=キートン・太一の3つの顔とその魅力
  • 珠玉の名エピソードを個別に深掘り解説
  • 全編を貫く3つの縦軸(ドナウ文明・冷戦・家族)
  • 冷戦末期のヨーロッパを舞台にした社会背景
  • 浦沢直樹作品としての位置づけ

読了時間:約25分 | おすすめ度:★★★★★(大人のための最高峰漫画)


基本情報

【MASTERキートン 基本情報】

  • 連載:ビッグコミックオリジナル(1988年〜1994年)全144話
  • 原作:勝鹿北星
  • 脚本:長崎尚志
  • 作画:浦沢直樹
  • 単行本:全18巻(オリジナル版)/全12巻(完全版)
  • 主人公:平賀=キートン・太一(日英ハーフ)
  • 核となるテーマ:人間の知恵と勇気、文明の興亡、冷戦下の人間ドラマ
  • 続編:『MASTERキートン Reマスター』(2012年〜2014年、ビッグコミックオリジナル不定期掲載)
  • 番外編:『キートン動物記』(浦沢直樹・勝鹿北星)
  • メディア:TVアニメ全24話+OVA15話(1998年〜、日本テレビ系)

平賀=キートン・太一という男

この作品最大の魅力は、主人公・平賀=キートン・太一の圧倒的な人物造形にあります。日本人の父・平賀太平と英国人の母との間に生まれたハーフ。名門オックスフォード大学を卒業し、3つの全く異なる顔を持つ男です。

第一の顔:考古学者

キートンの本質は考古学者です。他の2つの顔はいわば「副業」であり、彼の夢は一貫して「ドナウ河流域にヨーロッパ文明の起源となる遺跡を発見すること」。

日本の胡桃沢大学で非常勤講師として考古学を教えていますが、ポストは不安定で薄給。学会では異端視される学説を唱え、研究費もままならない。妻のパトリシアとは、「考古学に夢中で家庭を顧みない」ことが原因で離婚しています。

それでもキートンは諦めない。発掘現場の土を手に取り、何千年も前の人々の生活に思いを馳せる姿は、彼の最も純粋な側面です。「考古学とは、人類の夢の化石を掘り起こす学問です」――この言葉にキートンの全てが凝縮されています。

第二の顔:元SAS教官

キートンは英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)の元隊員であり、サバイバル術の教官として「マスター」の称号を得た男です。フォークランド紛争にも従軍した経歴を持ちます。

SASは世界最強の特殊部隊の一つ。その中で「マスター」と呼ばれるサバイバル教官は、極限状況での生存術を教えるプロフェッショナルです。キートンが作中で披露するサバイバル技術の数々は、全て科学的な根拠に基づいています。

  • 砂漠でビニールシートから水を得る方法:蒸発と凝結の原理を利用
  • 紙で防弾チョッキを作る:紙を何層にも重ねることで弾丸を止める
  • 煙幕代わりにタバコの葉を使う:煙で視界を遮り逃走
  • ロープ1本で断崖を降りる技術
  • 心理戦で武装した敵を制圧する方法

しかし重要なのは、キートンがこれらの技術を「人を傷つけるため」ではなく「人を守るため」に使うことです。SASの教えの核心は「生き延びること」であり、「殺すこと」ではない。この哲学が、キートンというキャラクターの根幹にあります。

第三の顔:保険調査員

ロイズの下請けであるロイドアンダーライター保険調査会社で働くキートン。保険金の不正請求や事故の真相を調べるこの仕事が、彼を世界中の事件に巻き込んでいきます。

保険調査員(オプ)という仕事は、地味に見えてスパイ顔負けの危険と隣り合わせ。キートンは調査の過程で、国際的な陰謀、テロリスト、麻薬組織、冷戦の残滓に直面します。上司のダニエル・オコンネルからは次々と難題を押し付けられ、世界中を飛び回る日々。

この「保険調査」という設定が絶妙なのは、あらゆる事件にキートンが関わる自然な理由になるからです。火災、事故、失踪、殺人――保険が絡むありとあらゆる事件が、キートンの仕事場なのです。


全編を貫く3つの縦軸

MASTERキートンは1話〜数話完結のエピソード形式ですが、全144話を通して3つの大きな縦軸が物語を貫いています。

縦軸1:ドナウ文明の謎

キートンの学者としての夢、ドナウ河流域のヨーロッパ文明起源説。メソポタミアやエジプトに先立つ独自のヨーロッパ文明が、ドナウ河流域に存在したのではないか。

この仮説は作中では「学会から相手にされない異端の説」として扱われますが、実際の考古学界でもヴィンチャ文化(紀元前5500年〜4500年頃、現在のセルビア周辺)の研究は進んでいます。ヴィンチャ文字と呼ばれる記号体系が発見されており、メソポタミアの楔形文字より古い可能性が指摘されています。

物語の終盤、キートンはついにドナウ文明の手がかりとなる「白い女神」の像に辿り着きます。長年の夢が現実味を帯びる瞬間は、作品屈指の感動シーンです。

縦軸2:冷戦の終焉と人間ドラマ

物語の時代背景は1988年〜1994年。まさに冷戦が終結し、世界地図が塗り替えられた時代です。

  • ベルリンの壁崩壊(1989年11月)
  • ルーマニア革命(1989年12月)
  • 東欧革命(1989年〜1991年)
  • ソ連崩壊(1991年12月)
  • ユーゴスラビア紛争(1991年〜)

これらの歴史的事件が物語の背景として自然に織り込まれ、フィクションでありながらリアルな時代の空気を伝えています。

東ドイツのシュタージ(秘密警察)の元エージェント、ソ連崩壊で行き場を失ったスパイ、ルーマニア革命で家族を失った人々、ユーゴ紛争の難民――冷戦に翻弄された「普通の人々」の人生が、キートンの目を通して描かれます。

連載当時はリアルタイムの時事ネタでしたが、今読み返すと「歴史の証言」としての価値も持っています。

縦軸3:家族の物語

キートンの家族をめぐるエピソードは、アクションや謎解きとは違った温かみを作品に与えています。

元妻パトリシア:英国人。キートンの考古学への情熱についていけず離婚。しかし元夫への愛情は完全には消えていない。

娘・百合子:キートン譲りの聡明さと行動力を持つ。父を理解し、その夢を応援する。物語を通じて自身も考古学に興味を持ち始め、最終的にはキートンの学説を引き継ぐ存在に。

父・太平:動物学者にして自由奔放な老人。女好きで世界中を飛び回り、息子以上にトラブルメーカー。しかし「知識は荷物にならない」という名言を残す、キートンの精神的ルーツ。


珠玉の名エピソード解説

MASTERキートンの真骨頂は、一話一話が独立した短編小説のような完成度を持つこと。ここでは特に印象深いエピソードを詳しく解説します。

「砂漠のカーリマン」(完全版1巻)

MASTERキートンの名を世に知らしめた、シリーズ屈指の名エピソード。

キートンは保険調査でタクラマカン砂漠を訪れますが、何者かに襲われ、荒野に置き去りにされます。水もなく、あるのはナイフ1本とビニールシートだけ。

キートンは砂漠に穴を掘り、ビニールシートを張って太陽蒸留器を作ります。砂の中の水分が蒸発してビニールシートの裏面で凝結し、水滴となって落ちる。このサバイバル技術は実際に使える方法です。

そしてキートンを追う者たちは、彼を「カーリマン(砂漠の隊商を襲う盗賊)」と呼び始める。追われる側から追う側へ、立場が逆転する展開は圧巻。知恵と経験で極限状況を乗り越えるキートンの姿は、「マスター」の称号にふさわしいものです。

「屋根の下の巴里」(完全版2巻)

パリの市民講座で臨時講師を務めることになったキートン。しかしその学校は閉校が決まっており、キートンの講義が最後の授業になります。

生徒は様々な年齢・職業の大人たち。学ぶことに遅すぎることはない。「人間は一生、学び続けるべきです。人間には知る喜び…好奇心がある」――キートンのこの言葉に、生徒たちの目が輝きます。

派手な事件も戦闘もない、静かなエピソード。しかし「学ぶことの意味」を問いかける深さは、MASTERキートンという作品の精神を最も純粋に体現しています。大人になってから読むと、さらに胸に沁みる一編です。

「貴婦人との旅」(完全版1巻)

ヨーロッパの列車の中で、キートンはチェコの没落貴族だという老婦人と出会います。彼女は「革命で全てを失った」と語り、キートンに自分の荷物を運ぶよう頼む。

しかしキートンは、彼女の話に微妙な矛盾があることに気づきます。彼女は本当に貴族なのか?荷物の中身は何なのか?列車の旅を通じて、二人の間に不思議な信頼関係が生まれていく。

最後に明かされる真実は、ヨーロッパの歴史の重みを感じさせるもの。老婦人の「嘘」の裏にあった本当の気持ちに触れるとき、キートンの優しさが静かに光ります。

「穏やかな死」

引退した英国軍の老兵が、余命いくばくもないことを知りながら、最期の日々を穏やかに過ごそうとする。キートンは保険調査でこの老兵に出会います。

老兵は第二次世界大戦で数々の勲功を立てた英雄。しかし彼が求めるのは「華々しい最期」ではなく、「穏やかな死」。キートンはSASの元教官として、軍人の気持ちを深く理解します。

派手なアクションは皆無。しかし「人間の尊厳ある死」について深く考えさせられるこのエピソードは、多くの読者が「MASTERキートンで最も心に残った話」として挙げます。

「瑪瑙色の時間」

キートンが少年時代の友人クリスと再会するエピソード。二人が子供の頃に見た海の色を、キートンは「瑪瑙(めのう)色」と呼びます。

大人になり、全く違う人生を歩んだ二人。しかし少年時代に共有した「瑪瑙色の時間」は変わらない。「俺たちは瑪瑙色の時を共有している」――友情と郷愁が交差するこの言葉は、大人だからこそ響く名言です。

「シャトーラジョンシュ1944」

フランスのワイナリーを舞台にしたエピソード。1944年ヴィンテージの幻のワインを巡る物語です。

第二次世界大戦末期、ナチスの占領下でワイン醸造家が命懸けで守り抜いた一本。そのワインが今、開けられるべき時が来た。「今こそこれを飲むのにふさわしい時です」。

ワインという題材を通じて、戦争の記憶と再生を描く美しい一編。フランスの風土、ワイン文化、そして人々の矜持。ヨーロッパの豊かさと哀しみが凝縮されています。

「帰郷」

東欧革命後の物語。資本主義の国で成功した息子が、共産主義を信じ続けた父親のもとに帰る。

体制の崩壊によって父の人生は全否定された。しかし息子は、父が信じたものを完全に否定することもできない。イデオロギーを超えた親子の絆を描く、冷戦終結後だからこそ生まれたエピソードです。

「臆病者の島」

フォークランド紛争の戦友との再会。かつて「臆病者」と呼ばれた男が、戦場で本当の勇気を見せた。

「勇気ある臆病者に」――このグラスを掲げる場面は、戦争と勇気について深く考えさせられます。「勇気」とは無謀に突進することではなく、恐怖を知りながらも為すべきことを為すこと。キートン自身のSAS時代を知ることができる貴重なエピソードでもあります。

「天使との契約」

ルーマニア革命を背景にしたエピソード。チャウシェスク政権崩壊の混乱の中で、キートンはルーマニアの孤児院の子供たちを救出しようとします。

革命の熱狂と暴力、取り残される弱者。キートンは保険調査員の立場を超えて、子供たちのために行動する。歴史的事件のリアルな描写と人道的なテーマが融合した、MASTERキートンの中でも最も社会派な一編です。

「狩人の季節」

SAS時代の因縁が現在のキートンに追いかけてくるエピソード群。キートンはかつてのSASの任務で、ある組織と対立していた。その報復が、数年後に始まる。

このエピソード群は、キートンの過去の影を描きます。穏やかな考古学者の仮面の下に、戦場で培われた「別の顔」がある。しかしキートンは暴力ではなく知恵で、過去の因縁に決着をつけます。

「白い女神」(終盤)

物語の終盤、キートンはついにドナウ文明の手がかりとなる遺物に辿り着きます。長年の夢であった「ドナウ河流域のヨーロッパ文明起源」の証拠。

学者として報われないまま走り続けたキートンに、ようやく光が差す。「僕の夢は――ドナウ河の畔に立つことです」。この言葉が現実になろうとする瞬間は、MASTERキートン全144話の集大成です。


キャラクター分析

平賀=キートン・太一:3つの顔を持つ男

  • 外見:温厚そうな中年男性。眼鏡をかけた知的な風貌。一見すると「冴えない大学講師」
  • 性格:穏やかで誠実、やや不器用。しかし追い詰められると「マスター」の顔を見せる
  • 能力:SAS仕込みのサバイバル術、格闘技、射撃。考古学・歴史・語学の深い知識
  • 弱点:家庭生活。元妻とは離婚し、経済的にも不安定。「考古学バカ」ゆえの世間知らずな面も
  • 年齢:連載開始時は30代後半〜40代前半と推定

キートンの魅力は、万能でありながら人間的な弱さを持つところです。仕事では超一流の能力を発揮しながら、私生活では不器用で孤独。「マスター」と呼ばれるほどの実力者なのに、本人は「ただの考古学好き」としか自認していない。

特筆すべきは、キートンが暴力を最終手段としてしか使わないこと。SASの実力があれば力で解決できる場面でも、まず対話と知恵で切り抜けようとする。「戦うこと」より「理解すること」を選ぶ彼の姿勢は、浦沢直樹が描く理想のヒーロー像です。

平賀百合子:父の夢を継ぐ娘

  • 性格:父譲りの聡明さと行動力。芯が強く、自分の意見をはっきり言う
  • 成長:物語の初期は普通の学生だが、徐々に考古学に興味を持ち始める
  • 役割:キートンの人間的な側面を引き出す存在。同時に「夢の継承者」

百合子はキートンにとって最大の心の支えであり、離れて暮らしていても、その存在が彼を支えています。物語の終盤で百合子がキートンの考古学への夢に共感し始める展開は、親子の物語としても深い感動を与えます。

平賀太平:人生の達人

  • 性格:動物学者。自由奔放で女好き。世界中を飛び回る
  • 役割:コミカルな存在でありながら、作品のテーマを体現する人物
  • 名言:「知識は荷物にならない」

太平はMASTERキートンにおける「人生の達人」です。学問に対する純粋な情熱、好奇心、自由な精神。キートンの人間臭さの「源流」がこの父親にあり、彼のエピソードは常に作品にユーモアと温かみをもたらします。

「知識は荷物にならない」という太平の言葉は、MASTERキートン全体を貫くテーマの一つ。どこへ行っても、何が起きても、頭の中の知識だけは誰にも奪えない。この信念が、キートン親子を支えています。

ダニエル・オコンネル:上司にして理解者

保険調査会社の上司。キートンに無理難題を押し付けるが、内心では彼の能力を最も評価している人物。表面上は厳しいが、キートンを信頼している。ドライなようで情がある。

チャーリー・チャップマン:イタリア系の探偵

  • 経歴:キートンの幼なじみ。イタリア系ハーフで探偵業を営む
  • 性格:陽気で社交的、キートンとは対照的。口は悪いが友情に厚い
  • 役割:キートンの「日常的な」人間関係を示す存在

元妻パトリシア

キートンとの離婚後も完全に関係が切れたわけではなく、要所要所で物語に登場。キートンの「考古学を選んで家庭を犠牲にした」という苦い過去を象徴する存在。しかし二人の間には、なお消えない感情がある。


サバイバル術の魅力

MASTERキートンを語る上で外せないのが、キートンが披露するサバイバル術の数々です。これらは単なるフィクションではなく、科学的・軍事的な根拠に基づいています。

実際に使えるサバイバル技術

太陽蒸留器:砂漠で穴を掘り、ビニールシートを張る。太陽熱で地中の水分が蒸発し、シートの裏面で凝結して水滴になる。実際にサバイバルマニュアルに記載されている技術。

紙の防弾チョッキ:新聞紙を何層にも重ねて体に巻くと、低威力の弾丸なら止められる。紙の繊維が弾丸のエネルギーを吸収する原理。

煙幕としてのタバコの葉:大量のタバコの葉に火をつけると、濃い煙が発生し視界を遮ることができる。

サバイバル哲学

キートンのサバイバル術の核心は、「道具がなくても、知識があれば生き延びられる」という哲学です。特別な装備や武器がなくても、周囲にあるものと知識の組み合わせで危機を乗り越える。

これは太平の「知識は荷物にならない」という言葉とも通じます。知識こそが最強のサバイバルツール。この思想が、MASTERキートンという作品全体に通底しています。


冷戦末期のヨーロッパ

MASTERキートンが連載された1988年〜1994年は、まさに世界史の転換点でした。作品に描かれた歴史的事象を整理します。

ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。東西ドイツは翌年統一されます。MASTERキートンでは、壁崩壊によって人生が一変した人々のドラマが描かれます。

東ドイツのシュタージ(国家保安省)の元エージェントたちは、体制崩壊後に居場所を失います。かつて祖国のために働いた彼らが、「裏切り者」としてさまようことになる。キートンはこうした人々と対峙する中で、イデオロギーを超えた人間の尊厳を問いかけます。

ルーマニア革命

1989年12月、チャウシェスク独裁政権が崩壊。「天使との契約」エピソードでは、革命の混乱の中で孤児院の子供たちを守ろうとするキートンが描かれます。

ソ連崩壊

1991年のソ連崩壊は、多くのエピソードに影を落としています。行き場を失った元KGBのスパイ、旧ソ連圏の政治的混乱、経済的困窮。キートンはこれらの人々と出会い、体制に翻弄された個人の悲哀を目撃します。

ユーゴスラビア紛争

1991年から始まったユーゴ紛争は、ヨーロッパに大きな衝撃を与えました。民族浄化、難民、内戦。MASTERキートンの後半部では、この紛争の影響が物語に反映されています。


考察・伏線ポイント

「ドナウ文明」は実在するか?

キートンが追い求めるドナウ河流域のヨーロッパ文明起源説。作中では異端の学説として扱われますが、実際の考古学界でも議論されているテーマです。

ヴィンチャ文化(紀元前5500年〜4500年頃、現セルビア)では、ヴィンチャ記号と呼ばれる体系的な記号群が発見されています。これが「文字」であるかどうかは議論中ですが、メソポタミアの楔形文字(紀元前3400年頃)より古い可能性があります。

また、ブルガリアのヴァルナ墳墓遺跡(紀元前4600年〜4200年頃)では、世界最古の金製品が発掘されており、高度な文明の存在を示唆しています。

作品が連載された1990年代と比べ、考古学の発見は大きく進みました。キートンの夢は、もしかしたら現実になりつつあるのかもしれません。

なぜキートンは考古学を選んだのか

SASの実力があれば、軍事コンサルタントや警備会社のトップとして高収入を得られたはず。しかしキートンは薄給の非常勤講師を選びます。

この選択の裏には、「人を殺す技術」で生きることへの拒否があります。キートンがSASを辞めた理由は明確には語られませんが、フォークランド紛争での体験が彼を変えたことが示唆されています。戦場で命を奪う側にいた男が、文明の起源を探ることで人類の「生」に向き合おうとする。この転換が、キートンという人物の核心です。

浦沢直樹作品系譜の中のキートン

浦沢直樹の作品群の中で、MASTERキートンは分岐点に位置します。

  • 『YAWARA!』(1986-1993):スポーツ×人間ドラマ。浦沢直樹の「大衆的な面白さ」の原点
  • 『MASTERキートン』(1988-1994):知性×冒険×人間ドラマ。ヨーロッパへの眼差しの始まり
  • 『MONSTER』(1994-2001):サスペンス×人間の闇。キートンのヨーロッパ描写が直結
  • 『20世紀少年』(1999-2006):SF×陰謀×友情。キートンの「普通の人の強さ」が発展
  • 『PLUTO』(2003-2009):SF×命の意味。キートンの人道的テーマが昇華
  • 『BILLY BAT』(2008-2016):歴史×物語。キートンの歴史への造詣が拡大

キートンで培われたヨーロッパの描写力、歴史への造詣、「普通の人」への愛は、後の全作品に引き継がれています。特に『MONSTER』のドイツ・チェコの精緻な描写は、キートンなくしては生まれなかったと言えるでしょう。

なぜ「大人の漫画」なのか

MASTERキートンが「大人の漫画」と評される理由は、勧善懲悪ではない物語構造にあります。

  • 敵にも事情があり、完全な悪人はほとんど登場しない
  • 正義が必ずしも勝つわけではない
  • 解決できない問題もある。それでも人は生きていく
  • 派手な必殺技や超能力は存在しない
  • 知識と経験だけが武器

少年漫画のような明快な答えはありません。しかし、だからこそ人生経験を積んだ大人の心に深く響くのです。20代で読んだときと、40代で読み返したとき、感じるものが全く違う。それがMASTERキートンの深さです。


印象的な名シーン・名言

「人間はどんな所でも学ぶことができる。知りたいという心さえあれば」

「屋根の下の巴里」でキートンが閉校する学校の生徒たちに贈った言葉。学校がなくなっても、学ぶことは終わらない。知的好奇心こそが人間の最も美しい資質だというキートンの信念が凝縮されています。

「知識は荷物にならない」

太平がキートンに伝えた言葉。どこへ行っても、何が起きても、頭の中の知識だけは誰にも奪えない。MASTERキートンという作品全体を貫くテーマとも言える名言です。

「僕の夢は――ドナウ河の畔に立つことです」

キートンが考古学への夢を語る場面。地位も名誉もない非常勤講師が、それでも諦めない夢。名声や金のためではなく、純粋な知的好奇心のために人生を捧げる。その姿勢の美しさが胸を打ちます。

「マスターは生きている限り諦めない」

SAS時代の教え子がキートンを評した言葉。サバイバルの極意は、技術ではなく「諦めない意志」にある。どんな極限状況でも、生き延びることを諦めない。それが「マスター」と呼ばれる所以です。

「勇気ある臆病者に」

「臆病者の島」のクライマックス。恐怖を知る者こそが本当の勇者である。無鉄砲な勇気ではなく、恐怖を認めた上でなお行動する強さ。グラスを掲げるこの場面は、キートンの戦争観を象徴しています。

「あの海の色は瑪瑙色だ。俺たちは瑪瑙色の時を共有している」

「瑪瑙色の時間」より。少年時代の記憶は色褪せない。大人になっても、あの頃共有した時間だけは変わらない。友情と郷愁が交差する、珠玉の名言です。

「今こそこれを飲むのにふさわしい時です」

「シャトーラジョンシュ1944」。戦争を生き延びた奇跡のワインが、ついに開けられる瞬間。歴史の重みと再生の喜びが、一杯のワインに凝縮されています。


『MASTERキートン Reマスター』について

2012年〜2014年にビッグコミックオリジナルで不定期連載された続編。原作は浦沢直樹×長崎尚志(勝鹿北星は2004年に逝去)。

Reマスターでは、MASTERキートン本編から約20年後の世界が描かれます。キートンは大学で正式な教授の座を得ていますが、相変わらずドナウ文明の夢を追い続けている。成長した百合子も登場し、父の学説を受け継ぐ姿が描かれます。

連載時、本編の電子書籍化が実現していなかった(著作権問題による絶版期間があった)ため、Reマスターの存在が本編の再刊行を後押ししたとも言われています。


まとめ

MASTERキートンは、知識と知恵で世界と向き合う大人の冒険譚です。派手な必殺技もなければ、超自然的な力もない。あるのは、考古学への情熱、SASで鍛えたサバイバル術、そして何よりも人間への深い理解と共感。

完全版全12巻・全144話という分量は、一話一話が短編小説のような完成度を持ち、どこから読んでも楽しめます。しかし通して読むと、キートンという男の人生が浮かび上がってくる。ドナウ文明の夢、冷戦の傷跡、家族への想い。全てが一つの大河となって、最終話に向かって流れていく。

20代で読めば冒険活劇として楽しめる。30代で読めばキャリアの悩みに共感する。40代以降に読めば、人生の意味そのものを考えさせられる。年齢を重ねるごとに味わいが深くなる、それがMASTERキートンという作品の最大の魅力です。

こんな人におすすめ:

  • 浦沢直樹作品(MONSTER、20世紀少年、PLUTO)が好きな人
  • 歴史や考古学に興味がある人
  • 派手なバトルより知的な展開が好きな人
  • ヨーロッパの文化・歴史に惹かれる人
  • 大人になってから漫画を読み直したい人
  • 短編集のような構成が好きな人
  • サバイバル術や雑学が好きな人

初めて読む方へ: 完全版は全12巻。1巻に収録されている「砂漠のカーリマン」と「貴婦人との旅」を読めば、この作品の魅力は十分に伝わるはずです。しかし読み進めるうちに、キートンという男の人生全体が見えてくる。そして読み終えたとき、あなたも「知識は荷物にならない」という言葉の重みを、キートンと一緒に感じているでしょう。


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